国際色豊かな神戸・北野には、「風見鶏の館」や「うろこの家」などの異人館が並んでいます。港町には大勢の外国人が居を構え、異国情緒あふれる街並みができました。その異人館街の西側に、実は日本には2つしかないユダヤ教の教会のひとつがあります。この教会の指導者「ラビ」であるシュムエル・ビシェスキーさん(36)の一族は、第二次世界大戦中にユダヤ人の大虐殺「ホロコースト」で悲惨な最期を遂げたのですが、今回、初めてテレビのインタビューでその過去を語りました。また、迫害から命がけで逃れてきたユダヤ人を受け入れた神戸の足跡もあわせて取材しました。
祖母の故郷で起こった悲劇の大虐殺「ホロコースト」
神戸・北野。観光エリアから少し外れた場所に静かにたたずむ教会「シナゴーグ」は、ユダヤ教の教会です。
ユダヤ教で指導者を意味する「ラビ」のシュムエル・ビシェスキーさん(36)。今回の取材では、特別にテレビカメラがシナゴーグの中に入ることを許されました。
(関西ユダヤ教団・ラビ シュムエル・ビシェスキーさん)
「『トーラー』と呼ばれるユダヤ教の聖典です。“羊皮紙”という特別な紙に書かれています」
国内にごくわずかしかいないユダヤ教徒の信仰を支えてきたビシェスキーさんですが、口を閉ざしてきた“過去”があります。
(シュムエル・ビシェスキーさん)
「私の祖母のリブカは、ロシアのルドニャという町で生まれ育ちました。そしてルドニャに1941年、ナチス・ドイツがやってきたのです」
1941年、祖母・リブカさんの故郷ルドニャを、第二次世界大戦の戦火が襲います。リブカさんは当時、ロシアのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にいましたが、のちに家族の悲劇的な最期を知ることになります。
(シュムエル・ビシェスキーさん)
「ナチスは『ソ連の戦車から身を守るためだ』と言って、森に深い穴を掘るように命令しました。ルドニャの人々が中に入って、穴を掘り続けていた時に、ナチスは大きなトラクターを使って彼らを生き埋めにしたのです」
リブカさんの両親や兄弟、姉妹など一族20人ほどを含むルドニャの住民約3500人が虐殺されたのです。リブカさんは、一族のそうした過去についてほとんど語ろうとしないまま2021年7月、この世を去りました。
(シュムエル・ビシェスキーさん)
「ホロコーストという非常に悲惨な体験が呼び起こす痛みを家族に味わってほしくないという思いから、私たちに語らなかったのでしょう」
ビシェスキーさんの一族には、ナチスに舌を抜かれるなどして命を落とした人もいます。祖母亡きいま、自らが経験を語り継いでいかねばならないという思いを強くしたといいます。
(シュムエル・ビシェスキーさん)
「“600万人のユダヤ人が殺されたことに怒りを感じるか”という問いは愚問です。怒りや憎しみという言葉では表せない“破滅”。それがまさにホロコーストなのです」
迫害から逃れるため、5000人以上のユダヤ人が神戸に
ホロコーストで大勢の人が命を落とした一方、奇跡的に戦地から脱出して、極東の町にたどり着いたユダヤ人がいたことはあまり知られていません。
神戸市中央区にある兵庫県立美術館が『流氓ユダヤ』という作品を所蔵しています。ちょうど80年前に神戸にいたユダヤ人を写した写真の数々。安堵だけではなく、流浪を余儀なくされた人々の複雑な心境も感じられます。1940年から翌年にかけて、少なくとも5000人を超えるユダヤ人が神戸にやって来たとされています。一体、なぜでしょうか?
1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。ポーランドには当時、300万人以上のユダヤ人がいましたが、その一部は隣国・リトアニアに逃げ込み、ヨーロッパからの脱出を図ります。彼らは日本を通過するビザを得ようと領事館へ殺到しましたが、そこでビザを発行したのが外交官・杉原千畝でした。
日本での滞在には身元保証人が必要でしたが、当時神戸にあった小さなユダヤ人コミュニティ「神戸ユダヤ共同体(神戸ジューコム)」が身元保証人を引き受けました。こうして多くのユダヤ人が神戸の地を踏んだのです。
神戸の市民にも、ユダヤ人難民の姿を心に留めている人がいます。神戸市在住の粟飯原三保子さん(87)は、いまの新神戸駅の近くにあった洋館でユダヤ人の子どもを大勢見たといいます。
(粟飯原三保子さん)
「神戸ですから、外国人の方には小さい時から見慣れていますのであんまりびっくりしないんですけれども、(ユダヤ人の子どもが)本当にいっぱいで手を振っているから、びっくりしてみんなが子どものほうを見て、こっちも手を振り返して言葉はわからないけれどもニコニコして。いまも目をつぶったら浮かんできますね」
しかし、当時の日本は日独伊三国同盟を締結するなど、ナチス・ドイツとの結びつきを強めていました。そうした状況はユダヤ人の受け入れに影響しなかったのでしょうか?
(神戸大学国際文化学部 辛島理人准教授)
「日本政府は、ユダヤ人政策については必ずしもナチス・ドイツと全く一緒だったというわけではないです。ユダヤ系の企業や銀行とお金を借りたり、何かを売買したりというつながりもありましたし、国際政治の駆け引きの中でユダヤ人の支持を得ることが重要な場面もありましたので」
神戸での暮らしと、伝えていきたい歴史
神戸にたどりついたユダヤ人のひとりで、いまはイスラエル在住のバール・ショーさん(93)が、オンラインで取材に応じてくれました。バールさんは、当時13歳でした。
(バール・ショーさん)
「神戸にたどり着いた時、戦火にまみれたヨーロッパを逃れて、自由な国で自由の身になったような気がしました。自分を迎え入れてくれる人々に出会ったように思えたのです」
“命の危険”はなかったものの、ユダヤ人難民の生活は恵まれたものではありませんでした。大半のユダヤ人はいまの神戸市中心部、北野坂とトアロードに挟まれたエリアに滞在し、空き家やアパートで生活しました。就労は認められず、生活費はアメリカのユダヤ人団体からの送金などに頼らざるを得ませんでした。ショーさんも、牛乳配達を手伝いわずかなお金を稼いだといいます。
(バール・ショーさん)
「牛乳を配ったり、空き瓶を回収したり、集金したりしました。私たちユダヤ人は小さい部屋にギュウギュウ詰めの状態で暮らしました。しかしみんな幸せだったのです。神戸は“わが家”のように感じられたのです」
最後にビシェスキーさんは、ラビとして「ホロコーストの悲劇と救済」の歴史を継承していきたいと話します。
(シュムエル・ビシェスキーさん)
「神戸の人々は、難民としてやって来たユダヤ人を敬意とあわれみを持って受け入れてくれました。この街とユダヤ人の歴史を受け継いだ立場に安住せず、その責任を果たすために、善き行いを積み重ねなければならないと考えています」
(2021年9月14日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『コダワリ』より)